映画『いたくて、きもちいいこと』について。

この監督は、もともと『ゴンドラ』という自主制作映画を撮った経験があり、AV監督になったのはそのときの借金を返すためだったのだそうだ。このことは今回、とても悪いほうに働いたのではないかと思う。つまり、「映画のことならわかっている」という傲慢さに。

 

『いたくて、きもちいいこと』を見た。見ながら、「本来、映画とは」といった観念的なことを始終考えてしまった。

 

「客観性がない」ということを冒頭でまず考えた。映画はもっと客観的につくられるべきものだ、と思ったのである。生まれて初めて考えたことだった。

 

シアターギルド代官山で、上演前に監督の短い挨拶があった。「塩見彩というAV女優がデビューする前の出来事を描いた作品です」という説明だった。チラシを事前に見ていたのでそのへんの大まかな情報は頭に入っていた。しかし、あの映画館で鑑賞した全員が、「そういうコンセプトの作品である」ということをアナウンスされた状態で見たことになる。

 

まあ、それが売りなのはわかる。塩見彩というAV女優が、自身の過去を自身で演じている映画である。宣伝文句としては、「リアルなSMプレイを収録!」というのとともに大事なポイントだろう。しかし、なぜ、すでにチケットを買って座席に着いている観客に監督はそれをアナウンスしたのか。

 

何のために撮った映画なのかを説明しておく必要があったのだ。監督としては、「何これ?」という疑問を観客に抱いてほしくなかったのだ。

 

唐突だが、ミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』の話をしたい。ピアノ教師である主人公が自身のマゾヒズムから破滅の淵に立つ、傑作だ。『ピアニスト』では、「イェリネクが劇作家になる前に実際に経験したことを題材にしている」なんてことは宣伝されない。大半の観客が、実際にあったことかどうかとは関係なく『ピアニスト』を見ただろう。観客は、ピアニストの話らしいな、というだけの手がかりから、母親と確執があるんだな、音楽に厳しい人なんだな、といった印象からぐいぐいとエリカの抜き差しならぬ欲望の発露に飲み込まれていく。

 

カンヌでグランプリとったやつと比べるなよ、と思うかもしれないが、AVというパッケージではなく映画の棚に並んだのだから仕方がない。同じ映画だ。実際にあった出来事を素材にしていること、主人公である女性のマゾヒズムを重要なモチーフにしていることは共通している。

 

しかし、TOHJIRO vs. ハネケ。塩見彩 vs. イザベル・ユペール。勝負にもなんにもなりゃしないんである。

 

冒頭から、ゆるい。ぼんやりとした女のぼんやりとしたカットにぼんやりとしたモノローグで心情が説明される。AVならチュルチュルと早送りさせるところだがこれは映画だ。ぼんやりとした導入につきあわなくてはいけない。塩見彩、映画女優としては致命的に集中力が足りないのだ。

 

しかし、と我にかえる。どうして、つきあわなくちゃいけないんだろう?

 

塩見彩には自分のことを語りたい動機があるのだろう。監督にも、「しおみん」(トークでそうよんでいた)のことを語りたい動機があるのだろう。でも、どうしてそれ、見なきゃいけないんだろう?

 

『ピアニスト』にはそんな疑問は抱かない。なんだかこの女、普通じゃないかも、という思いがどんどん確信に変わっていく。目が離せない。丁寧な描写と明晰な演技の魔法がある。

 

『いたくて、きもちのいいこと』にどんな魔法があるだろうか。

 

このドラマ部分は、完全にAVの文法にのっとっているとみてよいだろう。一応設定がわかればよし、というコストパフォーマンス重視の撮りかただ。主人公はエステの仕事をしているらしいが、同棲相手が「さすがエステティシャン」みたいな説明台詞をいうだけである。演劇じゃないんだから、昼間どんなふうに働いている女性なのか見せたらどうだろう。といったツッコミもとにかくむなしい。キリがないのだ。同棲相手と暮らしていた部屋も、生活感のない部屋、というよりはAVのセットスタジオのようにしか見えない。一つ一つのカットから状況が徐々に輪郭を見せ、他人だった人物にだんだん感情移入していく、というプロセスを全くたどらせてくれない。「やっつけ仕事」という言葉が頭をよぎる。

 

これはきつい。早送りしたい。

 

そして、もう「彼女がAV女優になるまでの話です」といわれているのだから、この同棲が破局に終わることは必定なのだ。わかりきった結末に向けて、だらけたドラマが進んでいく。

 

主人公のことを好きになりたい、と思ってもこれが難しい。まず、同棲相手と同性愛の関係にありながら同時にSMバーのママに縛られ鞭打たれることを愛好しているというのは、同棲相手からすれば「浮気」以外の何物でもないだろう。それで「嫉妬や束縛が苦痛になる」というのは自分勝手すぎねえか、と冷ややかな気持ちになる。両方はとれないってことがわからないのか? どちらとも捨てられずに苦悩するというならまだ理解のしようもあるのだけれど、「両方すき」は通らないだろう。まあ、それで破局するんだね、ということはわかる。早送りしたい。ああ、本当に。

 

そして、何度もSMプレイの場面が入る。あまりそういうAVを見たことのない人、実際の経験のないひとには刺激的なんだろう。そして、気の抜けたドラマ部分よりはたしかに見応えがある。本物の痛みと快楽が伝わってくるのだ。

 

まあ、これがやりたかったのね、と納得はする。本物のSMを映画で、という目論見は一応達成されていますよ。しかしそれは、またドラマ部分に戻るときに大きな落差を作ってしまう。さっきまでの説得力のある肉体と、ぼんやりとした「お芝居」の落差。

 

前述したように、ドラマ部分はこれ以上ないほどのローコストで撮られている。カメラ一台の長回しが全て。絵コンテなんか作ってないんじゃないかな。そしてその撮りかたで画面を埋められるほどの俳優ではないのである。


園子温の傑作『部屋 THE ROOM』は、一台の固定カメラで撮られているが、映画として弛緩はない。麿赤兒洞口依子の二人が徹底してストイックな演技をしているからだ。『いたくて、きもちいいこと』は、そうではない。初歩的な演技の集中ができていないのだ。自分の台詞の終わりで休んじゃってる。台詞のセンスも古く、説明的にすぎる。手練れの脚本家が入っていればもう少しナチュラルに、豊かなニュアンスにできたのではないだろうか。シナリオのコンテストはたくさんあるが、どれにも通用しないだろう。カメラワークも完全に AVだ。寄りまくってアップにすりゃいいってもんじゃないだろう。引きの絵が全く撮れないんだ。

そして、悪いけど、話じたいが、当人にとっては強烈で切実だったんだろうけれど、よくある話だ。「本当のことだったんですよ」といわれても、そうですかとしかいいようがない。どうでもいい他人のどうでもいい大事件の再現ドラマだ。

ドキュメンタリー映画でもないし、劇映画としても成立していない。

というようなことを書いても書いても、むなしさはつのるばかりである。AVを見て「映画になってない」と怒るような滑稽なことを自分はしている。普通ならチュルチュルと早送りするドラマ部分にいちゃもんをつけてどうしようというのか、と。

まあ、しょうがないよ。映画として見てしまったんだもの。

上映前に説明をした監督は、正しかった。何の説明もなかったら何ですか? と思うもの。

まあ、その、とにかく、なんだ。映画なめんな。試写してみて、他人の目から見りゃ映画になんかなってねえなこりゃ、と気づいてくれ。終わり。

 

日野皓正の殴打から考えること

 どうも初めまして。日野皓正さんの事件についてTwitterのタイムラインを眺めていると、いろいろ指摘しておきたいところがでてきてしまいまして、こちらのアカウントを取得しました。匿名ですみません。実名がバレても問題ないくらいの責任感では書くつもりです。最後までおつきあいいただければ幸い。

 そもそもの発端はこの記事なのかな。

世界的ジャズ・トランペット奏者、日野皓正が男子中学生をビンタする驚愕動画 | デイリー新潮


 映画『セッション』(内容にそぐわない最低の邦題です)みたいにはいきませんでした、という事件ですね。『セッション』の主人公は彼なりの怒りと屈辱からアレをやりましたが、今回の中学生ドラマーにものっぴきならない何かがあったのでしょうか。無我夢中でやってしまっていたのか、決意のようなものがあって意識的にやっていたことなのか…。

 その後、日野さん本人のコメントが出てきました。

日野皓正、中学生へのビンタは教育…「必要な時もある」/芸能/デイリースポーツ online

 
 「でも、必要な時もあるんだよ。それだけのこと」という発言と、今後、生徒がまた同じことをした場合への対応についての「手は上げないで、『やっぱりお前は無理だからやめよう』という」との回答とを両方読むと混乱しますね。「やめよう」といってもやめなかったら結局また殴るんじゃないでしょうか。報道陣への苦言は逆ギレとしかいいようがないし、大丈夫なんだろうか。

 いろいろな意見を眺めていると、「当事者の中学生が反省し謝罪しているのだからもうこれ以上問題にするべきでない」という意見がたくさん出てきました。私はそうは思いません。二人のあいだで和解がされていても、「体罰は時と場合によって容認されるべきか」の問題はあまり多くの合意点を産み出していません。教育に関する訓練を積んでいないアーティストが青少年と関わるときに起こりうる問題と対策について十分な議論が共有されたとはとてもいえません。もう少しプラクティカルな分析をしていかないと、同種の事件が際限なく起こってしまう。

 私は演劇人で、演出と劇作を専門領域にしています。演劇のほうでもアウトリーチ活動というのは盛んで、私も小学校から大学、プロ向けの養成所、専門学校などさまざまな場所で指導をしてきました。とある研究会に加わった時期には幼稚園や障害者とのワークショップに参加したこともあります。ここから私が述べることはそういった経験をベースにしているものとご理解下さい。

 私がワークショップにあたって採用している基本姿勢は、「うまくいかないことが起こったらそれはファシリテーターの責任」というものです。(世田谷のDream Jazz Bandは厳密にいえばワークショップではありませんけれども、その議論はここでは省きます)これは前述の研究会でイギリス人の講師から教わった考え方です。小学生や中学生と演劇をやるときには本当にいろいろなことが起こります。それでも、全てのことに対応していかなくてはならない。

 具体的には、事前準備をしっかりとやります。プログラムを何パターンも組み立てておく。ちょっとうまくいかないな、と思ったときにいくらでも打つ手があるようにしておくんですね。雰囲気が硬いな、と思ったときにはこれ、ヒートアップしすぎて危険だな、と思ったときにはこれ、と手札を揃えておくと、柔軟にプログラムを変更することができます。

 そして、毎日の導入をきちんとシミュレーションします。絶対に守ってほしいことはなにか、どういうことを期待しているかを伝え、取り組む課題をできるだけスマートに説明します。

 そもそもの下準備も大切です。学校の場合は先生から、劇場などの場合は担当のコーディネイターから、どのような参加者がいるか、特に気をつけるべきひとはいるか、どのようなトラブルが想定されるか、そのときに誰がどうするかなどをハッキリさせておきます。これも当日に自分がリラックスして入るために大切なことです。

 演劇では身体と感情の両方を動かしていくので、音楽や美術の場合と比較して「危険な事故」が起こりやすいという理由はあります。ノリでやっているとたいへんなことになってしまうんです。どうあっても生徒たちの心身を健康なまま終了させなくてはいけない。

 話がそれますが、学校のような場所でアーティストが失敗するパターンのひとつは、自分がやりたかったメニューにこだわりすぎて変更がきかない、というものです。そしてうまくいかなかった原因を生徒たちのほうにするアーティストがいます。「最近の子供は…で…でダメだ」というような愚痴を何度耳にしたことか。それは、つまらないメニューを強制させたほうに問題があるのだと私は思うのです。

 さて、アーティストを招聘するコーディネイト側のひとはどのようなことに気をつければよいでしょうか。「日野さんの件、どう思われますか?」ときいて人となりを探るのもよいかもしれませんね。ひとつおすすめしたいのは、いかなる場合にも参加者に暴力を振るわないという一筆をもらっておくことです。絶対にそういうことをしないでくださいねというメッセージになります。偉いアーティストのひとにそんなことを、と思われるかもしれませんが、講師契約などではごく普通のことです。セクハラ行為をしないというのもついでに誓約してもらうとよいのではないでしょうか。

 もう一つはプログラムの進行について事前に確認をしておくということです。これも大学でシラバスなどを要求するのは普通のことですから遠慮はいりません。「適当にやりますよ」というようなアーティストは招聘を考え直した方がよいです。「このメニューはハードルが高すぎるような気がしますがうまくいかなかった場合の対策はどうなっていますか?」というような質問ができないなら、だいぶまずい。

 まあ、丸投げするつもりであれば逆に、「開催中のすべてのトラブルはアーティストが責任を負います」ということをハッキリさせて「トラブルおこすなよ」というプレッシャーをかけたほうがいいでしょうね。

 ここで、体罰についての私の考え方を明確にしておきます。教育の現場で体罰がどうしても必要だという考え方を採用するのであるならば、文科省は「正しい体罰」のガイドラインを定め、必要な資格教育を行うべきです。どのような場合に誰が何を基準に実施を判断するか、どのように行うかを明確にしなくてはならない。もちろんその都度、学校、教育委員会、父兄への報告書が必要でしょう。録画を義務づけるべきかもしれないし、教頭などほかの教員の立ち会いも必要です。現状は個々の教員が勝手に判断して勝手に実施している、無秩序で危険な指導法です。「当校ではこのような場合にこのような体罰を行います」というようなルールも明示されていない。それで生徒との合意もないのですから、動機や目的が何であれ暴行であり、傷害事件にほかならないのです。僕の同級生には鼓膜を破られたのがいました。「キレて怒りをぶつける暴力教員」の存在を許容する現状には強く反対です。導入がどうしても必要ならばそれに沿ったルールを定め、きちんとやるべきだと思いますがいかがでしょうか。「正しい体罰」があるならば「正しい体罰」だけをやり、絶対に行き過ぎが起こらないようにコントロールしなくてはいけません。

 日野さんの件に戻ります。きっかけとなったのは中学生ドラマーの「ルール破り」のようですね。当日のステージにおける約束事を無視した暴走を日野さんが制止した、という内容です。予定されていた進行を中学生がどれだけ妨げたか、という詳細が明らかになるにつれ、「必要なときもあるんだよ」という日野さんの言葉に共感する方も多くなっているようです。たしかに、強制的に演奏をやめさせることが必要だったケースかもしれません。4ヶ月の積み重ねが最悪の方向にいってしまった怒りと悲しみは大きなものでもあったでしょう。

 しかし、その「必要なとき」はなぜ起こったのか? を考えてみる必要があります。2005年から毎年問題なく行われていた演奏で、なぜこんなことが起こってしまったのか。

 外野から率直に思うこととしては、「4ヶ月の指導はなんだったのか」ということです。本番をぶち壊しにしてしまったのはその生徒ですが、そうさせてしまったのは指導者です。結果的には指導力不足だったのです。「トラブルが起こったらすべてファシリテーターの責任」という考え方に沿えばそうなります。

 「毎年問題なくやれていたのにそんなこと予測できるかよ」という考えはあるでしょう。たしかに今回のような、本番で突然暴走し制止に従わない、という事件は予測が難しいと思います。しかし、「小中学生は何を考えて何をするかわからないから、当然と思えることでも入念に説明を重ねていこう」という慎重なコミュニケーションがあれば、暴走は防げたかもしれません。あらゆるトラブルをひととおりシミュレーションしていたならば、予想外のできごとであっても冷静にハンドルできたかもしれません。「トラブルが起こったなら全て自分の責任」という哲学があれば、感情的に怒りをぶつけることなく最善の対応ができたかもしれません。

 殴ったことそのものが大きな問題なのですけれども、分析していくと、「対応の難しい事態に陥ってしまった」ことが第一の問題であり、「そのときに殴る以外の手段を検討できなかった」ことが第二の問題です。

 日野さんが予想外のできごとにうまく対応できずに手を出した、というふうに考えると、「才能に期待しているからこそ厳しい指導をするのだ」といった擁護意見は大きく的を外しているといえるでしょう。才能に期待していたら殴っていいっていうのもとても奇妙な理屈ですけれどもね。

 どんなにシミュレーションを重ねても、かならず予想外のできごとは起こります。ただ、ある程度の準備をしておくことでそれなりに冷静な対応はできるものです。絶対に暴力に頼らずにトラブルを解決するという心構えを持つかどうかが重要で、それは誰にも可能なことである筈です。

 いや、お前はできるかもしれないが俺にはできねえよ、というアーティストさんはそれではどうしたらいいのか。最初に正直にアナウンスするしかないでしょう。「いうことをきかないやつは殴るかもしれないからそのつもりでいろよ」と。実際に暴力を振るうかは別として、その宣言をすることである種の事態を未然に防ぐことができます。逆に、そういった工夫をしていないならばやはり、怠惰であり油断なんだと思うのです。